日蓮は少より今生のいのり(祈)なし。只佛にならんとをも(思)ふ計なり。
『四條金吾殿御返事(四條第十八書)』
建治3年(1277) 聖祖56歳作 全:p903 定:2巻p1384
成仏への祈り
仏とは死者の霊のことだとするのが、世間一般の通念ではないでしょうか。世の中に、広まってしまっている間違いはたくさんありますけれども、これなどはその代表格の一つで、このくらい間違ってしまっていると、戸惑いすら覚えます。
仏すなわちブッダ(仏陀)は、人生の惑いから解脱した大聖者のことですから、仏に成る、成仏するとは、解脱することです。どうしてこんな間違った解釈が社会に浸透してしまったのでしょうか。もし、仏が死者の霊のことであるならば、大乗仏教はもはや無用の長物です。
人間の最も嫌うものは死であり、最も望むものは長寿です。死者の霊が仏であるならば、成仏とは死ぬこと以外の何物でもありません。誰が死を願うでしょうか。死は、免れないものではありますけれども、健康な人は死に急ぐ必要は全くありません。だとすれば、成仏を願う理由もないわけです。大乗仏教の目的は、一切衆生を成仏せしむるところにあるのですから、仏=死というこの通念は、大乗仏教の大敵です。
このような間違いを、誰が世の中に広めてしまったのでしょうか。恐らくは、江戸時代の僧侶たちなのですから、困ったものです。この間の経緯を詳述している余裕はありませんが、寺請制度に立脚した当時の寺院は、生活の安定と布教の不自由を付与され、読経が売り物のようになってしまいました。売り物であれば、その効能を高くいうようになります。死んでから、お寺の住職に読経して貰えば、生前不信心であっても、不徳を働いた者でも、読経の功徳によって帳消しになり、蓮の台(うてな)に乗って成仏できる、ということになりました。神道では、人が亡くなると神さまになる、という考え方もありますし、浄土教では、人が死んで極楽往生する、という教えがあり、こうした思想が相まって、人が死ぬと仏になる、ということに行き着いたのでしょう。ここに、大乗仏教は真面目を失ったのでした。
ひとたび社会通念となれば、なかなか消えるものではありません。お寺は、死者のための場所になってしまいました。生きている者を対象とした新興宗教が発展したのは、当然の成り行きでした。日蓮宗は、今生で仏になる宗教です。この本義を失い、正しい目的を忘れてしまったならば、日蓮仏教の存在価値はありません。
もちろん、供養を軽んじてはなりません。しかし、仏になる祈りを取り戻さずして、日蓮教団に明日はありません。創祖髙佐日煌聖人が、聖徒団を興された所以です。