◆人間は霊と肉のクロスからできている。どこからどこまでが霊で、どこからどこまでが肉であるかという問題になると、その区分を付けることは容易なことではない。
◆心霊とは我々の精神である。精神もまた、脳の中に宿っているが、これは肉体に生命の営みが失われると、灯火を吹き消すように消えて行く。心霊は、肉体の一定の条件によって現れ、その条件が失われると去るものであることは誰でも知っている。
◆してみると、霊と肉のクロスする交叉点は、生命の営みをする条件であって、ここから人間の精神は無限に奥深い霊の世界に繋がっていると考えるべきである。
◆仏教心識学である唯識に阿頼耶識、阿摩羅識の説があり、近代精神分析学に無意識の説がある。どうやら、この辺りに、霊と肉との交叉点があるようである。
◆釈尊が「無明」と名付けられたのも、この無意識という暗幕に対するものであったと推察される。無明から現れるものは、本能的な欲望だけではなく、私たちの真に聡明な力もまた、その奥に陣取っているのである。
◆この聡明な力が、何によって用意されたものであるかを考えると、我々は呆然としてなすすべを知らない。しかし、聡明な力のまたその奥に、偉大なる心霊が存在することを拒むこともまたできない相談である。
◆我々の聡明の奥に位するものは、霊なる神である。我々の心霊は神に通じているのである。これを仏性と言い、第九識と言うが、実はこれは個々の人間を超越し、宇宙の真理と同じ座を占めている。
◆我々の、道を行う生活は、個人の意志ではなく、神の意志から現れる。よって、道を行うと、必然に神秘現象が起こるのである。九識霊断法も、倶生霊神のご加護も、かかる必然である。
日蓮宗聖徒団首導 髙佐日瑞