辛きことを蓼の葉に習ひ、臭きことを溷厠に忘る。
『立正安国論』文応元年。聖祖39歳。(12頁)
臭きことを溷厠に忘る
蓼はタデです。「蓼食う虫も好き好き」という諺がありますが、あの蓼です。蓼の仲間の中のヤナギタデという種の葉は特有の辛味を持ち、香辛料として用いられます。その辛い蓼の葉を、けれど、好んで食べる虫がいます。人の好みはさまざまで、一般的には如何なものかと思われるようなものでも、それを好む人はいるものだ、というのが、「蓼食う虫も好き好き」です。
聖文は、そうした辛い蓼の葉でも食べているとその辛味に慣れて辛さが解らなくなる、という意味です。
溷厠は便所のことです。雪隠、憚り、閑所、御不浄、東浄、手水場、手洗い、化粧室、トイレ、ラバトリー…と呼び方はいろいろありますが、コンシと言って解る方は限られているかもしれません。それはともかく、トイレに入ると、最初は臭いと思っても、だんだん鼻が慣れて利かなくなり、匂いが解らなくなり、臭いことを忘れてしまう、というのが右聖文の内容です。
このように、人間は、だんだん環境に慣れてしまい、ものごとの弁別がつかなくなる、ということを、日蓮大聖人は警しておられるのです。
「善言を聞きては悪言と思い、謗者を指しては聖人と謂ひ、正師を疑ひて悪侶に擬す。其の迷ひ誠に深く、其の罪浅からず。」と大聖人は続けられています。
現代は、往時に比して、大量の情報が溢れています。現代人が一日に接する情報量は、江戸時代の一年分である、などとも言われるほどです。
この中から「善言」を選択するのは、容易ではありません。インターネットの時代になって、正しい情報を取捨選択するのが難しくなったとも言われますが、大手マスコミの報道が正しいとも限りません。ある立場から取捨選択された情報にしか接することが出来ずにいると(しかもそれが大量であると)、私たちのものの見方考え方が「臭きことを溷厠に忘る」ようになってしまうかもしれません。私たちに求められるのは、善悪正邪真贋理非曲直を見極める眼を持つことです。
大聖人は、現代の表現を用いれば、陰謀論者であったり過激派扱いされていたかもしれません。もちろん、現代の陰謀論者や過激派が皆、現代の日蓮大聖人候補であるわけではないので、これまた注意が必要です。
聖人と言われる謗者の如何に多いことか。
法華経と日蓮大聖人を明鏡とし、辛きと臭きに慣れないように心掛けましょう。