凡そ成佛とは、我が身を知るを佛に成るとは申すなり。我が身を知るとは、本よりの佛なりと知るを云ふなり。
『十二因縁御書』康元元年(1256)。聖祖35歳
我が身を知る
誰もが、永遠のいのちを求めています。いつまでも若くありたいと願います。
年齢を重ねてみると、気持ちはそれほど若い頃と変わりません。しかし、肉体は確実に老化しています。自己の意志に反して衰えて行きます。肉体を使用しているのは、間違いなく自分ですが、肉体は、生命現象の営みの原理である生理によってのみ支配されており、自分の意志のままに肉体を営むことは出来ません。
自己の永生の願いを裏切って勝手に滅んで行く肉体。このことを正しく判断すれば、自己は特定の肉体を使用しているけれども、それは使用しているだけで所有しているのではないことに気付かされます。
この気付きは、「神」の認識に継がるものなのですが、そのことは今は措きましょう。ひとまず、自己と肉体の生理は別だということを理解した上で、自己の正体を確める、心の中身の追求に入るのが順序です。肉体と自己とを分離して、肉体だけを造物主に帰してしまうならば、今度は自己とは何ぞやという問題に解決が付かなくなってしまいます。観念的には自己と肉体を分離することは出来ますが、実際的に分離することは不可能ですし、強いて観念的に肉体を否定すると、自己そのものも否定するような、深刻ぶっているだけの戯論(けろん。無意味で役に立たない議論)になってしまいかねません。
私たちが自分だと思っている自己意識は、肉体の歴史の上に記録されている同一人格ということであって、生粋の自己とは区別しなくてはなりません。この区別は非常に難しいのですが、例えば、記憶喪失になってしまったらどうなるかと考えてみると、イメージしやすいかと思います。
過去の記憶を無くした時、眼耳鼻舌身からなる個の肉体の歴史に記録されたその人はいなくなってしまいますけれども、凡ての人に共通する自存の意識は残っています。自己を自己とし、自己と他者を区別する意識ははっきりとあるわけです。
自己は単なる意識ではなくて本能と理性を帯同しています。本能と理性との説明は、ここでは省きますが、この二つの心識は自己の所有する本来の能力であり、自己そのものと自ずから区別されます。
法華経寿量品には久遠実成の本佛釈尊が説かれます。法華経以外の諸経に登場する夥しい諸佛は、悉く釈尊を本体とする分身であるとし、本佛の弟子である本化の菩薩を登場せしめ、この娑婆世界の衆生済度は、それら本化菩薩に担当せしめるという、本門虚空会の大ドラマを神話的に描き出しています。
歴史上の釈尊は、本地無作三身佛が自ら娑婆世界に出現されたものです。釈尊の悟りとは、自身が本よりの佛であり、その佛体は、一切衆生の最心奥の心王(第九識)と同じものであるということだったのです。