設ひいかなるわづらはし(煩)き事ありとも夢になして、只法華経の事のみさはぐ(思索)らせ給べし。
『兄弟鈔』文永12年4月。聖祖54歳(933頁)
法華経の事のみ
本年3月にも御紹介した、池上宗長・宗仲兄弟に宛てた御手紙の一節です。
「たとえどのような煩わしいことがあろうとも、現世のことごとは一瞬の夢のようなものであると考えて、永遠の教えである法華経のことだけを思いなさい」と教え示しておられます。
兄弟の父であり、池上家の棟梁であった池上康光は良観房忍性に帰依していました。
忍性は、当時の真言律宗を代表する僧で、北条時頼に招かれて光泉寺の開山となり、また北条業時が創建した多宝寺に住するなど、幕府の庇護を受けながら教えを弘めました。文永四年(一二六七)には北条長時・業時の兄弟から、父重時の菩提所である極楽寺に招聘されました。その後も永仁元年(一二九三)に東大寺大勧進職に任ぜられるなど要職を歴任し、癩病患者の支援や貧民救済、道路橋梁の構築などの社会事業でも知られています。
大聖人の律宗批判は、主に忍性を念頭に置いたものでした。末法の時機観を踏まえないこと、社会事業を為すためとして関米・関銭等を徴集したりしてかえって人びとを苦しめたこと、などを批判されました。
忍性は、大聖人のことを幕府に訴えさせたり、幕府要路の者やそれに連なる女性に働き掛けて、大聖人の弾圧を謀ったりしました。
このような忍性に帰依していた康光が、大聖人への信心を持つ宗長・宗仲兄弟を赦す筈がありません。この年の春、康光は兄弟を威圧して改信を迫りました。兄弟がこれに応じなかったので、康光は兄の宗長を勘当し、弟の宗仲に、法華経の信心を捨てることを条件として、家督の相続を持ち掛けました。
こうした情況を踏まえて、法華信仰の貫徹を教示されたのが『兄弟抄』です。
当時の武家社会にあっては、勘当されるということは、経済的基盤のみならず、社会的な立場をも失うことでした。康光は、大聖人への信心に励む息子兄弟に、揺さぶりを掛けたのです。
「わづらはし(煩)き事」というのは、単に面倒臭いというような軽い意味合いではありません。煩悶苦慮して、意匠惨憺たることを意味しています。そうした苦悩に満ちたことがあったとしても、それは現世の一時のことであるから、それに惑わされることなく、法華経のことだけを考えなさい、と仰るのです。
かかる状態にあって、「法華経の事のみ」とは、何と強い御指南でしょうか。
池上父子の対立は数年続き、この間、康光は宗仲を二度勘当しました。しかし、兄弟は力を合わせて父をいさめ、慰諭に努めました。そしてついに、父康光に勘当を撤回させたのみならず、康光を法華信仰に導き入れたのでした。
法華経の事のみをさはぐらせて、煩き事を解決したのです。