しを(潮)のひる(干)とみつ(満)と、月の出るといる(入)と、夏と秋と冬と春とのさかひ(境)には必ず相違する事あり。凡夫の佛になる又かくのごとし。必ず三障四魔と申障いできたれば、賢者はよろこび愚者は退く、これなり。
『兵衛志殿御返事』建治元年11月。聖祖54歳。(936頁)
三障四魔
順風満帆ばかりの人生はありません。どんな人であっても、一生の間には、凪の時もあれば逆風に吹かれることもあるものです。
潮に干満があり、月に出入があり、四季に移ろいがあるように、物事は全て変化するのであって、潮目の変わる際には必ずそれまでと違いが生まれます。
私たちが仏になろうとする時にも、こうして思わざる魔障が出現する、と日蓮大聖人さまは仰います。それが「三障四魔」です。
三障は、煩悩障、業障、報障の三つの障。煩悩障とは、貪欲・瞋恚・愚痴などの自身の煩悩が佛道の障りとなること。業障とは、五逆・十悪などの悪業(悪い行い)によって生ずる修行の妨げ。報障とは、悪業の報いとして受けた境涯が、仏道修行の障礙となること。
四魔は、陰魔、煩悩魔、死魔、天子魔の四つの魔。陰魔は、修行の妨げとなる五陰(肉体や心のはたらき)の不調和。煩悩魔は煩悩障に同じ。死魔は、修行者の寿命を奪うこと。天子魔は、欲界の第六天(=他化自在天)の魔王波旬が修行者の心身を乱すこと。
三障も四魔も、仏道を修行しようとする私たちを悩み苦しめ、修道を妨害するもの、と考えていただければよろしいでしょう。正しい仏道を志して前に進もうとすれば、必ずこの三障四魔が興って、私たちの行く手を阻もうとするのです。
自転車を漕いでみましょう。速く走ろうと漕げば漕ぐほど、空気の抵抗を感じるようになります。低速で漕いでいる分には、風が心地よい、という程度ですみますが、速度が上昇すれば、空気の壁との闘いです。
このように、安閑と人生を過ごしている時には、何でもなかったこと、気にならなかったことが、仏の道を志して進もうとすると、思い通りにならないこと、うまく行かないこととなって、私たちに立ち塞がって来るのです。
思いも掛けない事件に巻き込まれたり、予期せぬ事故に遭遇したり、突然の病魔に犯されたりすることもあるかもしれません。
障魔が現れた時、これこそ自分が正しい道を前進しようとしている証左であると思って喜び一層精進するのが賢者であり、邪魔されて前に進むことをやめて退いてしまうのは愚か者である、と大聖人さまは教示しておられます。
大丈夫、私たちには、倶生霊神符があり、九識霊断法があります。如何なる逆風が吹こうとも、寿量御本仏さまが背中を支えてくださいます。