何に況や日蓮今生には貧窮下賤の者と生まれ、旃陀羅が家より出たり。心こそすこし法華経を信じたる様なれども、身は人身に似て畜身也。魚鳥を混丸して赤白二渧とせり。
『佐渡御書』文永9年3月。聖祖51歳。(1134頁)
旃陀羅が家より出たり。
本年二月十六日は、日蓮大聖人さまのご降誕八〇〇年の聖辰です。
この機会に、大聖人のご出自について考えてみましょう。
「旃陀羅」はサンスクリット語のチャンダーラの音写語です。ヒンドゥー教に根ざすインド社会の世襲の階級制度であるカーストにおいて、ブラーマナ〔婆羅門〕(司祭)、クシャトリア(王族・武士)、ヴァイシャ(市民)、シュードラ(隷属民)の四姓に属さない、その下のアウト・カーストがチャンダーラであり、不可触民(アンタッチャブル)として差別される人びとです。
どうして、大聖人さまは、自らの出自を「旃陀羅」などと仰ったのでしょうか。
文字通り賤民のご出身であるから、とか、漁師という殺生に携わる出自であるから、というような説明をする向きもあるのですが、この聖文の筆致には、そのような単純な解釈を許さない、尋常ならざる含意のあることが感じられます。
「赤白二渧」というのは、赤渧は母の血のこと、白渧は父の精のことです。この二渧が和合することによって識神が宿り、人間が生まれるとされます。
「魚鳥を混丸して」には、身分立場を異にする両親の子であるという趣意が籠められているのであろう、と創祖行道院日煌聖人は仰います。高き天空を舞うような地位にいる父と、低き水中の境遇にある母との子、なのでは。
大聖人さまが、ご自身の出自について、詳しく述べておられる著作はありませんけれども、この聖文を始めとして、祖書の中に散見される自叙に関する部分を手掛かりとしつつ、事績、遺品、伝承、各種史料を総合的に勘考して、大聖人さまの父上は後鳥羽上皇、母上はその愛妾亀菊ではないかというのが、創祖の学説です。
大聖人さまが「旃陀羅」であると仰っているのだから、それをその通りに受け取ることが肝要であり、大聖人さまの出自を詮索するなど、大聖人さまに対する冒涜である、と説く人もいますが、真実の探究は、自らそれとは別の問題です。
そもそも私たち日蓮門下の為すべきは、大聖人さまのお言葉の文字面をそのまま受け止めることではなく、大聖人さまが仰ろうとした意趣を拝することです。その為にも、真実が奈辺にあるかを追究しなくてはなりません。
例えば、『開目鈔』に「本願を立ん。日本国の位をゆづらむ、法華経等をすてゝ観経等について後生をご(期)せよ。父母の頸を刎(はねん)、念仏申さずば。なんどの種々の大難出来すとも、智者に我義やぶられずば用ひじとなり」という一節があります。漁師の子であるのと、上皇の落胤であるのとでは、「日本国の位をゆづらむ」の意味合いが全く違って来ることでしょう。