増加する孤独死
先日、集合住宅の自室で孤独死(孤立死)をされた方のご葬儀を、縁あって務めさせていただきました。
葬儀屋さんに伺ったところ、「こういったお葬式は近年多くなりました。少し前までは都会の話だと思ってたのですが…」とのこと。熊本県の郊外の寺の副住職である私も同様に、どこか対岸の火事のように感じておりました。
実態はどうなのだろうと少し調べてみたところ、民間の研究機関が平成23年に年間2万7千人もの方が孤独死されていると推計したとの記事を見つけました(「朝日新聞デジタル」平成30年9月18日)。
国の定義がないことなどもあり、正確な統計データは存在しないものの、東京都監察医務院が昨年公開した資料では、東京23区内で孤独死をされたと思われる方が、平成15年~30年の15年間で倍増しているそうです。
一般的には、孤独死とは、一人暮らしの人が、誰にも看取られず、自宅などで、突発的な病気などによって亡くなることを言います。
かつては都会でも、「持ちつ持たれつ」「お互いさま」の生活がありました。米や味噌醤油を貸し借りしたり、料理のおすそ分けをするといった人情味あふれる助け合いの社会です。こうしたコミュニティであれば、孤独死は起こらないことでしょう。
持ちつ持たれつの善知識との出会い
現代、生活必需品を貸し借りするような濃密な人間関係は、稀薄になりました。在宅の仕事も沢山(たくさん)あります。コンビニで大抵のものは手に入りますし、通販や宅配だけで生活することも可能でしょう。その気になれば、人との繋がりを持たずに生きることができる時代になっているのかもしれません。
しかし、こんな時代だからこそ、日蓮大聖人さまの弟子である私たちは、「総和」の理想を掲げて、行動しなければならないのではないでしょうか。
「善知識」ということばがあります。「善き友」「真の友人」という意味で、仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる人のことを言います。
善知識たいせちなり。而(しか)るに善知識に値(あ)ふ事(こと)が第一のかたき事なり。されば仏は善知識に値う事をば一眼(いちげん)のかめ(亀)の浮木(うきぎ)に入(い)り、梵天よりいと(糸)を下(さげ)て大地のはり(針)のめ(目)に入(い)るにたとへ給へり。
(『三三蔵祈雨事』)
日蓮大聖人さまは、善知識が大切だけれども、善知識と出会うことが難しいのである、と教えられています。
千年に一度しか海上に浮かび上がることができない海底の一眼の亀が、海に浮かんでいる赤栴檀の浮き木に出会うが如く、梵天から垂らした糸が地上の針の目を通るが如く、出会い難いのである、と仰るのです。
でも、どうでしょう。この「紙上法話」をお読みくださっている皆さんは、既に団長上人と出会っておられます。出会い難き善知識に出会う幸運を得ておられるのです。
どうか、この有り難い仏縁を感謝し、大切にして頂ければと思います。
いえ、そこに留まってしまったのでは聖徒団信仰にはなりません。
善知識と申すは一向・師にもあらず一向・弟子にもあらずある事なり。(『開目鈔』)
善知識というのは、一方的に師でありというのでもなく、専ら弟子であるというのでもない、と日蓮大聖人さまは仰います。
つまり、お互いが善知識に成り合うことが肝要であり、皆さんも誰かの善知識に、と教えておられるのです。
倶生霊神符を着帯し異体同心に信仰する総和の仲間。この仲間を増やすことこそが、善知識となることです。
それこそが、良き社会を作り、この世を浄土にして行く一歩なのです。