我日本の柱とならん。我日本の眼目とならん。我日本の大船とならん等と誓いし願やぶるべからず。
『開目鈔』
文永9年2月。祖寿51歳。全:p67 定:1巻p535
三大誓願
申すまでもなく、三大誓願と呼ばれている祖文です。
上の聖文の、少し前の部分を引いてみましょう。
「詮するところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん。(中略)善に付け悪につけ、法華経をすつるは地獄の業なるべし。本願を立てん。日本国の位をゆづらん、法華経等をすてて観経等について後生を期せよ。父母の頸を刎ねん、念佛申さずば、なんどの種々の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。其の外の大難、風の前の塵なるべし。」
諸天善神が守ってくださらなくとも、どれほどの災難があろうとも、構わない。私は法華経に身命を賭するのみである。いずれにせよ、法華経を捨てるということは地獄に堕ちる行いである。しっかり心を定めて、絶対の大いなる誓いを立てる。「日本国の国主の地位を与えましょう。その代わり法華経を捨てて、観無量寿経などによって来世の安楽を祈りなさい」といった甘言や、「念仏を唱えなければ、父母の頸を刎ねるぞ」という脅迫などの様々な大難が来ようとも、南無妙法蓮華経こそが最高の教えであるという私の義を論破する智者が現れない限りは、断じて屈することはない。その他の大難など、風の前の塵のようなもので、問題にならない。
このような信念を持たれた日蓮大聖人さまの命懸けの誓願こそが、三大誓願です。
日本国の柱となり、眼目となり、大船となる、とは、日本をして真に正しい本来の日本たらしめる、ということです。
ここ数年、人口減少による経済の縮小などの予測から、日本は衰退しつつある、没落する、といった論調が目立って来ています。それはそれで一つの現実であるかもしれません。
しかし、国家の真価は、経済や領土によって決まるものではありません。人間の真の値打ちが、その人が資産家であるかどうかといったことによって決まるものではなく、その人の人格によって決まるように、国家の価値は、言わば「国格」によって決まるのです。領土が狭かろうが経済が劣ろうが、その国の国民が総和の姿を現じ、国を挙げて浄土相を顕わしているとすればどうでしょう。そうした国こそ、世界の国々のお手本となりましょう。我が国をサンプルとすれば、世界の平和が実現できる、世界は真に繁栄する、そうした信念に立ち、そうした使命を持つ国。日蓮大聖人さまは、日本を法華経の精神が生き続けるそのような国であると確信され、それ故にこそ一閻浮提第一の国であるとお考えになられたのです。
この三大誓願の精神を継承しなければなりません。そして、法華経の国である日本の本質を顕現せしめ、全人類を即身成仏へといざない、世界中を仏国土に導くことを、私たち聖徒団の本願といたしましょう。