佛閣甍を連ね経蔵軒を並べ、僧は竹葦の如く侶は稲麻に似たり。崇重年旧りて、尊貴日に新なり。但し法師は諂曲にして人倫を迷惑し、王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し。
『立正安国論』
文応元年7月。祖寿39歳。全:p6~7 定:1巻p213
崇重年旧りて、尊貴日に新なり。
寺院は建ち並び、僧侶は大勢いる。仏教に対する尊崇の念は昔から続いているのみならず、日々新たなものとなっている。しかし、法師の心は曲がっていて人倫を惑わせ、王や臣下は思慮がなく正邪を弁別することができない。
祖文の意はおおよそ以上の通りです。日蓮大聖人さまは『立正安国論』で、国家の安穏ならざる状況を憂い、その原因を尋究され、諂曲にして人倫に迷惑する法師と、不覚にして正邪を弁えない王臣こそがその元凶であると断ぜられました。
「天変地夭飢饉疫癘遍く天下に満ち広く地上に迸り、牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり。死を招くの輩、既に大半に超へ、悲まざるの族敢て一人も無し」という事態が何故に出来しているかについて検考され、「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神は国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来り鬼来り、災起こり難起る」のであると幕府に諌言されたのです。
現代日本はと申しますと、大災害が続き、世界的な異常気象が続いておりますので(『立正安国論奥書』に「去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の尅の大地震を見て之を勘ふ」とあります)、天変地異は感じられるものの、飢餓や伝染病の蔓延はありませんし、道端に動物の死骸が転がっているようなことも滅多にあるわけではなく、大聖人ご在世の時よりマシかとも思えます。
しかしながら肝心の宗教情勢は「佛閣甍を連ね経蔵軒を並べ、僧は竹葦の如く侶は稲麻に似たり。崇重年旧りて尊貴日に新なり」から一変しています。寺院の数は八万に近く、コンビニよりも多いと言われますが、人口三千万程度であった江戸時代に比しても数分の一であり、しかもその相当数は朽ちんとすらしています。一般の方の信仰心の有り様は「尊貴日に新」どころか、有史以来、最低の情態にあると言って差し支えないほどで、しかも、ますます稀薄化しようとしています。
つまり現代社会は、大聖人が『立正安国論』を著された時よりも或る意味で更に悪化しているのです。これが末法です。末法とは、人びとの神秘(宗教)への感応力の低下、仏教の教化力の低減のことなのです。
かかる現代社会なればこそ、正しく力強い真の宗教が求められます。社会を組織しているのは人間であり、人間を行動させるのは思想であり、思想を形成するのは精神であり、その精神の培養を担うべきは正しい信仰であるからです。
今こそ、正しい信仰運動によって、人間の真価を引き出す機縁を形づくり、社会浄化・仏国土顕現に向かって行かなければなりません。「尊貴日に新」であるような社会づくり、その為の機縁づくり、それが、私たち日蓮宗聖徒団の使命です。